⑭運命を分けた出逢い【希望に勝る薬なし】

生きていることへの罪悪感、人の迷惑にしかなれない自分に対する否定の気持ち、やりたくないことをするしかなくなってしまった絶望。夢を理解されず、自分の幸せが誰からも望まれないと感じる寂しさ、心細さ。

そんな負の感情たちが心を覆い尽くしてしまい、感情を失くしたように何もする気が起きなくなった私は、うつ病と診断されたことを家族に隠しながら、淡々と生命維持活動を行う作業だけをしていた。それも、生きているより死ぬ方が迷惑になりそうだからという理由で仕方なく、である。

鹿児島移住のための貯金も、親に大金を払わせて通うことになってしまった自動車学校の教習も、大好きな音楽もすべて投げ出し、人生を諦める寸前まで来ていた。

 

時間が経てば、いつかは必ず解放されるだろう。でも、「今を生きること」がもう嫌だ。やりたくないことから逃れられない今が、とにかく苦痛。「いつか」を待つ気力すらない。

八方塞がりの状況な自分。しかし、何が起こるか分からないのが人生。自動車学校入学からうつ病までの流れなんかは、まさに全くもって想定外の展開だったが、さらに思ってもいないシナリオが待っていた。

急転を経て、また急転する。

 

「なりたかった自分」を見た。

大学4年生、10月半ばのある日の昼下がり。うつ真っ只中で毎日どこにも行きたくなかったが、昔から外出が好きだった私は家族に怪しまれないように、少し外に出て町内を軽く散歩してくることにした。

人通りの少ない、見慣れた景色の中をしばらく歩いていると、背後から「すみません!」という若い女性の声が聞こえた。

周りには誰もいない。私に声をかけたのかと思い、振り返るとそこには、ヘルメットをかぶって自転車に乗った、同年代くらいの女の子二人組がいた。こっちへ来る。

 

「私たちそれぞれ、栃木県と岐阜県から北海道に来たんです」と、片割れの子が話し出す。ということは多分、どこかへ行きたいけれど道が分からないから教えてほしくて声をかけてきたのだと思った。

それなら助けてあげなければ。鹿児島への一人旅で、知らない地での不安は身を持って体験したからよく分かる。

どうしたんですかと聞くと、キリスト教の宣教師として教えを伝えて回っていることを明かされ、よく見ると二人とも宣教師であることを示すバッジをつけていた。

 

(うわ・・・厄介な人たちに捕まった)

 

己の注意力のなさを悔やんだ。宗教というものに、当時の私は悪いイメージしか持っていなかった。いたるところでしょっちゅう押し付けに遭い、嫌な思いをしてきたからだ。

彼らは教えを盲信するあまり、こちらの気持ちを一切無視して一方的に自分たちの宗教の良さをまくしたて、強制的に巻き込んでこようとする。

目の前にいる二人がどうかなのは分からないが、警戒心が一気に強まるのを感じた。

 

ここは適当に聞き流して立ち去ろうと思い、とりあえず話を聞いてあげる姿勢を見せて穏便に済まそうとする。

しかし、自分と変わらない年くらいの子たちだったこともあり、感情移入したのかもしれない。

宗教の話はよく分からなかったが、いつの間にか、真剣に自分たちの信じている教えについて話す姿に心を打たれ、単純に彼女たち自身に興味が出てきていた。

「なんで私はこんなに真面目に話を聞いているんだ?別にキリスト教に魅力を感じているわけでもないのに・・・」と心の隅で疑問を抱きながら。

 

ひとしきり話し終えたところで、「よかったら友達になりたいので連絡先を交換しませんか?」と、驚きの台詞を投げかけられた。

(友達?宗教の勧誘が目的ではなかったの?この子たちの意志?そういう手法?)

つっこみどころは色々あったが、願ってもない展開になった。遠くから来た二人だからまた会えるとも限らないし、これを逃したら次はない可能性が高い。

この奇跡的な出逢いを、大切にしなければいけない気がした。

もし万が一、宗教の勧誘に持ち込まれて嫌だと思ったら拒否設定でもすればいいし、住所を教えるわけでもないので特にデメリットもないだろう。選ぶ権利はこちらにある。

そんな判断で二人の申し出に応じて連絡先を交換し、私たちは別れた。

 

***

 

去っていく二人を見送り終えて、衝撃が遅れてやってくる。話している時は全編通して内容が特殊すぎたため他のことを考える余裕などなかったが、二人に興味を持った理由に気がつき、忘れていた大事なものを呼び覚まされる感覚がある。

 

二人は、私がなりたい姿そのものだったからだ。

 

地元を離れ、知らない土地で、誰にでも理解されるとは限らないことをして、時には心ない批判に遭いながらも、夢を叶えて堂々と生きている、年の近い女の子。

自分がこうありたいと願い続けてきた理想の人物像を、現実で見せられた。あの二人の生き様により、「この世では好きなことをして生きられる」という証明をされた。

彼女たちをもっと知りたい、夢を叶えて生きている人たちの思考・生い立ち・見ている世界を、人生を、詳しく知りたい・・・そう感じたのは、

私も、あんなふうに生きたいと思ったから。

頑張っている姿に心を動かされたのは、頑張っていた頃の自分と重なったから。

 

―――夢を、叶えたいからだ!!―――

 

白黒のように見えていた景色が一瞬にしてカラーになり、何も感じなくなった心が、一気に活力を取り戻す。

私は何をすべきだった?何をやりたかった?歌と作曲が大好きで、鹿児島の相方とデュオを組みたいのではなかったか?こんなところでうつ病なんかになって、いつまで立ち止まっているつもりだ。さっさとこの苦しい日々から逃れて、望みを叶えなければ。今すぐ、山積みの問題を片づけに行くぞ。―――そんな、前向きな心の声が久しぶりに聞こえる。

いつもの、頑固で愚直な自分が戻ってきたように思えた。それに加えて、根拠はないがこれからは何かとうまくいきそうな自信も感じる。きっとまた、今日から頑張れるはずだと。

壁はある。世間には優しい人ばかりでもない。でも、やりたいことを追求する生き方も許されているとわかった。ならばもう、私の道は一つ。

 

久しぶりに感じる、「楽しみだ」という気持ち。

これからどんなふうに夢を叶えて、どんな幸せをつかみ取っていけるだろうと、枯れていたエネルギーが湧き上がる。やはり自分はこうでなくてはと思った。

 

戻ろう、本来あるべき姿へ!

 

肯定されることで、肯定されていいと知る。

宣教師の女子たちとの関係はその後も続いた。といっても、教会主催の一般客も対象にしたハロウィンパーティーに招待されたり(にぎやかすぎて衝撃だった)、お互いの休みが合う日には食事に出かけて近況を語り合ったりと、宗教感がまるでない、本当にごく普通の女友達のような付き合い方であった。

しかし彼女たちと会うたび、私は今までになかった刺激を毎回与えられ、自分の中の常識の数々が塗り替えられていく感覚だった。

 

自分の理想像を現実で見ることにより、理想が「実現できるもの」として認識できるようになって自信がつくという経験がある人は多いと思う。人を見て、「自分にもできるかも」と感じるアレだ。私には、まさにこの現象が起きていた。

年の近い女の子たちが努力して夢を叶えて、堂々と自分自身の価値基準で生きている姿を間近で見せられ続けることで、私も当然夢を追って生きてもいいんだ・私の夢は実現できるんだと確信できるようになっていった。

自分のやりたいことを、肯定されていると感じられたのだ。

 

今までずっと、夢を追いかけようにも批判を恐れ、いけないことをしているように心のどこかで思いながら、隠れて誰にも見られないように続けてきた。味方をしてほしい身近な人であっても理解を示してくれないのが当然だから、自分の夢に自信を持つなんて不可能だった。

私の幸せは受け入れてもらえない、望まれない、そういう世界に生きていると思っていた。

 

でも、彼女たちの生き様が「そうではない」と教えてくれる。

誰が何と言おうと、すべての人に夢を追う権利があり、好きな人生を望むことを許されていて、やりたいことに自信を持っていいんだ、と。

家庭や学校(大学)という、自分が身を置く狭い世界での常識ばかりに囚われていたが、外に出れば宣教師のほかにもいろんな人がいて、それぞれの生き方がある。

自分のように音楽の道を志し、人が集まらない小さなステージでも、見向きもされない路上でも、無人の海でも、必死に歌って理想の自分になろうとしている人々がたくさんいる。

好きなことを好きだと胸張って叫んでいる、立派に生きている同志たちだっているのだ。

 

私は今まで、周りの常識に反しているような自分を、自分で肯定できなかった。否定されて当然と思っていた。

だが宣教師たちのおかげで、「私も周りのみんなと同じように肯定されていいんだ」とようやく理解することができた。自分の生き方を、夢を叶えたいという本心を、肯定されたおかげで。

 

戻った力で、もうひと走り。

「肯定される」という要素が日常に加わった影響で私は自分の生き方に自信を持ち、夢を叶えるために行動するエネルギーを取り戻した。

とりあえず目の前の課題である車の免許取得と仕事探しを、逃げていないで早く終わらせてしまおうと決めた。嫌だと嘆いたところで片付かないままだからだ。

 

やる気がないなら作ればいい。

考え方を変え、プラスの面や将来への良い影響を見出すことでやる気に繋げていけばいい。そう切り替え、まずは嫌すぎて投げていた自動車教習の受講を再開した。

相方の住む鹿児島では公共交通機関が充実しておらず、車がないと不便らしい。ならばいずれ必要になりそうだと思うことにし、相方と自分の車でスタジオやライブ会場に向かう楽しい未来を思い浮かべて教習に臨み続けた。

結果、なんとわずか1か月弱で仮免許から本免許までをストレートで取得して自動車学校卒業を果たした。覚えが悪すぎて、いつまでも仮免許試験の許可すらもらえなかったこれまでの自分とはえらい違いだと、自分が一番驚いたものだ。ほんの少しのやる気が加わるだけで、ここまで変われるのか、と。

 

小細工を捨てて、我が道を一直線に

そしてもう一つの難関、鹿児島移住資金を稼ぐための仕事探しだ。人目が気になって真面目に就活するフリをしてきたが(第十三話参照)、人に左右されなくていいことを知った私は、誰に見られて何を言われてもいいから自分の意志を貫いて行動すると決めた。

 

大きく変化したのは、余計に傷つくことをやめるために、理解されたいと望むことはきっぱり諦め、理解されないことを受け入れたという点だ。

こちらに踏み込んでこようとする大人たちがいても、「夢はあるけれど、話したいとは思わない。やりたいことはきちんとした仕事だから何も心配ない」と毅然とした態度で言い放ち、好きにやらせてもらうように口出しを拒む。

干渉を避けるために仕方なく力ある者の言いなりになるような、保身のためだけに遠回りをする真似はもうせず、干渉しないでくれという意志表示ができるようになった。

止められてやめるつもりなどないし、やめなくていいのだから人の意見は問題ではない。理解を得られるかどうかは、自分の夢を追うことにまったく関係ないと改めて気付いたのだ。

 

肝心の仕事だが、こちらの理想とする求人が常に出ているわけではないため、4年生の春から探してはいたが巡り会えずにいた。しかし12月下旬のある日、ついに動きがある。

大学の帰り、たまたまいつも通らない道を歩いていたところ、通りがかりに地元の老舗そば屋のスタッフ募集の貼り紙を見つけた。

なんとなく、これはいいかもしれないと直感で思った私は、すぐに書いてある電話番号に連絡した。

実は大学で情報処理や経営学などをいろいろと学んだが、どうしてもデスクワークというものに惹かれず、動き回る仕事がしたかった。

それに大学入学前からラーメン屋で4年近くアルバイトをしてきており、楽しかったのでその経験を生かした仕事をもっと続けたいと思っていたのだ (ラーメン屋は昼のみの営業だったため、稼ぎを考慮してしぶしぶ就職と同時に辞めることにしていた)。

 

後日面接に行き、こちらの自己紹介や志望動機、会社側から業務内容の説明など、お互いひと通り話し終えたのち、担当者から「大学卒業まで試用期間としてアルバイトをしてもらい、卒業後からは正社員として雇ってもいい」と告げられた。

事実上の採用であり、就職内定である。

あっさり即日で決まってしまったので達成感はそこまで大きくなかったが、何度も選考を受ける非効率的な道を行かず、望み通り履歴書1枚・面接1回で終わらせることができたのは嬉しかった。

しかも、大学卒業前から働かせてもらえるという。これでやっと、金額の大きい貯金が始められて鹿児島移住の目標もぐんと近くなる。そう思うと、夢に見た幸せな未来がいよいよ間近に迫っているのを感じ、喜びが大きく膨らんでいくようだった。

 

こうしてあの出逢いからたったの2か月ほどで、免許取得から内定までを駆け抜け(ついでに卒論も提出し)、やっと私は大きな試練たちから解放された。

さらに、自然に湧き上がる前向きな力によって無気力状態を克服できたため、1円も使わずにうつ病を治したことになる。心を救うのは心、絶望を救うのは希望というわけなのだろう。

 

運命的にもたらされた出逢いは。

偶然落ち込んでいた時に偶然外に出て、偶然選んで歩いた道で、偶然起きた不思議な出逢いにより、偶然私は夢を叶えたい気持ちを呼び覚まされて生きる力を取り戻した。

偶然にしては出来すぎているタイミングで私は救いだされた。諦めるべきでないと誰かがどこかから訴えかけ、私を操作するかのように。

スピリチュアルなことは信じていなかったが、もしかして彼女たちは天使だったのだろうかと、らしくもなく非現実的なことを考えるほどに。

 

だが、そう思いたくもなる。この出来事がなかったら、私はあのまま心の病を克服できず、前進するきっかけすらつかめないまま苦しみ続けていたことだろう。

どこかのタイミングで克服し、どのみち鹿児島へは行っていたかもしれないが、同じ心持ちで生きられてはいない可能性もある。

肯定というものを知る機会と巡り会えず、移住先でも周りの目を気にして普通の社会人を演じながら、職場の同僚たちに見つかって批判されるのを恐れて世間に隠れるように音楽をやる、自信のない人生を送り続けていたかもしれない。間違いなく、今の私にはなっていないはずである。

 

日常の一コマに起きた、些細な出来事が

心、夢、のちの人生、全てにおいて運命を分ける転機となった。

 

2012年、21歳の時の作品。進路で行き詰まり、北海道に住む自分が鹿児島の相方とデュオを組んで音楽をやっていく夢など、叶わないのではないかと思ってしまった。それでもやはり、諦めたくないという気持ちを思い起こし、歌にして残すことに決めた。