⑦逃げたい私、変わりたい私。

人が成長するためには変化が必要だが、我々はどんなに悪い状況であっても慣れた環境に安定を感じる。慣れていれば、変化に必要なエネルギーを費やすことがなく、楽だからである。

引っ越しや転職など、慣れ親しんだ日常を捨て、知らない世界に飛び込むのは勇気がいるし戸惑いも恐怖もあり、最初は新生活にストレスを感じるだろう。

とはいえ、慣れてしまえば自然とそこが日常になり、安定していくものだ。

大変そうだけど楽しそうでもある、怖いけれど挑戦してみたい。逃げそうになる心の奥に潜む前向きな本音に従い、思い切って変わる方を選べたとき、私たちは成長できる。

必要なのは能力ではなく、勇気ただひとつ。だとしたら、迷ったときに後悔しないのはどちらだろうか。

今までのままか、変わってみるか。

 

宝物ができたおかげで

志望大学に無事合格した私は高校を出て大学生になり、入学初日、説明会などで席が近かった5~6人の女の子たちと仲良くなった。新たな環境で友達ができるかどうかが大きな不安の種だったので、初日に解消されたのは大きい。

そのうえ、当時は一生分の運を使い果たしたと本気で思うほど、良い友達に恵まれた。私はこの最初に出会った友人たちと大学4年間を共に過ごし、濃い思い出をたくさんもらって、卒業して10年たった今でも交友関係が続いている。

彼女たちにとっての私は決して良い友人ではなかったかもしれないが、私にとっては本当に貴重な、財産と思える出会いになった。

 

幸せすぎて怖かったりもしたけれど

私たちはそれぞれ好みも性格もばらばらな異色チームだったが、皆お互いを尊重しあい、それでいて変に気を使うこともなく自然体で付き合える仲だった。

しかし付き合いたての頃、私は今までの友人関係との違いにギャップを感じてしまい、大好きな友達と一緒にいるのに、楽しいのに、どこか自分だけ場違いに思えて居心地が悪かった部分もあった。

 

小中学生の頃は馬鹿にされたり、雑に扱われるのが当然で、高校ではアルバイトを通してうわべ付き合いなら苦ではなくなったが、学校の同級生とはどこか距離を取って、進んで関わることもしなかった。

音楽の相方以外に心を開ける存在がおらず寂しかったものの、どこかでその寂しさを当たり前に思って、自分の日常としていた。私の「普通」はこれ、というふうに。

その普通が、覆されたのである。ずっと望んでいた、心を開ける友達ができた。

それはもう、嬉しい。だけど、どうしてかこの幸せが、自分にふさわしくないと感じてしまう。

幸せで怖い、とはこういうことだろうかと思った。今までいい思いをしてこなかったから、こんなに大事にされていいのかと不安になる。

「今まで」と違う。とてつもない、違和感。これでいいのかなと、いっとき一人考え込んだのだった。

 

もうひとつ、この子たちが私と一緒にいるところを見られて馬鹿にされたらどうしようという怖さもあった。

以前、自分の存在のせいで友達が馬鹿にされてしまったことがあり(第二話参照) 、私といたら人は不幸になってしまうと思い込むようになった。

一緒にいたいけど、この大好きな子たちが傷つくのは嫌だ。いつでも離れられるようにしておいた方がいいのではないか。

そんなことを思い、内容まで詳しく覚えてはいないがネガティヴなことを言いまくって、暗に「私と関わったらこんなに面倒くさいよ、離れるなら今のうちだよ」と、わざとみんなを遠ざけようとしてしまったこともある(その通り相当面倒くさかっただろうと反省している)。

それでも彼女たちは私の暗い部分を受け入れ、付き合い続けてくれた。感謝してもしきれないほどである。私といたら傷つくかもしれないのに怖くないのかと、当時は衝撃を受けたものだ。嬉しいけれど、本当にそれでいいのかと。

 

幸せを求められるようになれた。

しかし、初めは怖かったものの、この不安はあっさりと打ち砕かれた。

大学という場所は、高校まであった固定のクラスというものがない。今までのように、逃げ場がない環境とは違う。

同じ学科でも必修科目以外は自由選択なので、基本的にみんな個人行動の時間が多くなり、履修科目がかぶらないと学内でほとんどすれ違いすらしない同級生もいる。

そのため、誰が誰と関わっていてもそもそも把握すらされていなかったり、接する場面がなければどんな人間かもわからないので悪口の言いようがない。

このように、友人関係に口を出されるような環境ではなかったため、何も心配には及ばず、くだらない悩みだったと知って私は気にすることをやめた。

そして、身近に心を開ける友達がいる幸せを感じていたいと思うようになった。

だんだん私は孤独でいるよりも、彼女たちと接していられる毎日の方が心地よくなっていき、「この幸せを自分の日常にしたい、こっちの日常を選びたい」と、ついに人を拒む自分から変わっていくことができたのであった。

 

部活に入るぞ。

さて、メインイベントである。大学に入った理由の大きな一つ、ステージ経験を積むべく音楽の部活に入ってボーカルを志願するミッションをスタートせよ。

音楽系の部活は軽音楽部と、ジャズ研究部という二つがあった。仲良くなった友達のうち二人が所属しているし、何だかお洒落な感じがしてかっこいいというやや安直な理由で、ジャズ研究部を検討してみることにした。

1年生の夏ごろからたまに練習風景の見学に行ってみるとかなり和やかで、先輩たちも優しく、これなら楽しくできそうかなと思った。

 

入る・・・ぞ・・・?あれ、どした。

だが、いざ入部に踏み切ろうとすると、あと少しの所で何度も躊躇してしまう自分がいた。

入部してしまったら、人前に立って歌うことから逃れられなくなる。自分で決めた道だというのに、それがたまらなく怖くなった。

もともと大嫌いで、まだ好きになったわけでもない、いまだに毎回カラオケすら心のどこかで憂鬱に思っている、「誰かに自分の歌を聴かれる」ということ。

そんな私なのに、挑戦しようとしている。憧れた自分になるためとはいえ、大丈夫なのか。

入って合わなければ辞めたらいいだけだが、辞めるのはつかみかけたステージ経験のチャンスを手放して無に帰る行為。

途中で根を上げて「せっかくの機会を投げ出してしまった」「やろうと思えばもっとできたのに」と悔やんで終わることなどできない。

実質、入部の選択は逃げ道を断つことになると思った。戻れない、厳しい試練の道へ踏み出すのだ。

 

今ならまだ引き返せる・・・そんな自分の声に、決意を揺らがされていた。

 

“まだ早いのではないか。勉強とバイトに加えて部活までこなせるのか。相方と会えるようになってから二人でステージに出ればいい。ソロでやるわけでもないのに一人で歌う訓練なんて必要なのか。

それにまず仲間に認められないといけない。独学で練習してきたとはいえ、人に聞かせる以前に部員達に通用するレベルか。しなかったら、激しいダメ出しに遭っても耐えられるのか。中学時代に経験した地獄の合唱練習のように、認められるまで監視されて歌わされることになってもいいのか。

まだあるぞ。学内で歌うイベントがあれば、聴いた人たちからどんな批判を受けるかわからない。陰で笑われながら、心の中で馬鹿にされながら学生生活を続けるのか。

そんな思いをしてまでやりたいことか―――”

 

私の中にいる何人もの、「逃げたい私」がたくさんの言い訳を持ってきて、わざと目につくように、至近距離に次々置いていく。

チャンスは目の前に、手を伸ばすほどの距離すらない間近にある。すぐに手に入る。なのに、手に入れて背負う運命の重さが、決断を迷わせる。自分自身が、行く手を阻む・・・

私の欲しいものは、どこなんだ。ここにあるんだろう。黙って、早く取れよ。何を渋っているの。

 

悩んでいる間に、時は過ぎる。それでもやがて、この停滞している状況を打開するカギを見つけた。

 

「やらなかったら必ず後悔する。」

 

やらない後悔で終わっていいのか。

思えば自分は、やってみたいと思うことがあっても決断の時にいつも人目に左右され、傷つかない方ばかり選んできた。人目を避けることで心が安全に保たれるからだ。

それでも、やりたかった気持ちは残る。そして自分ができないことに挑む勇気ある者たちを憧れの目で見ながら、逃してしまったチャンスを悔やむというお決まりのパターンだった。

また、そんな虚しい思いをしていいのか。

ここでも変われずに終わるのか。

逃げたい心の奥で、本心が訴えてくる。

 

やらなかった後悔のおはなし。

中学・高校の学祭で、みんなの前に立って歌っている子たちはいた。私のやってみたかったことで、できなかったこと。

私は、自分なんかみんなを楽しませる立場になんてなれないし、選ばれた人だけが立っていい華やかな舞台にふさわしくないと思っていた。

いつだって人前に立ってみんなを楽しませるのは、決まって目立っている部類の子だった。みんなに人気があり、人前で何かやっても別におかしくない、適任といえる子たち。だから、見る生徒たちも盛り上がる。

対して、人を遠ざけて必要以上に周りとなじまないようにしていた私がいきなりそんな舞台に立って、誰が感情移入できるだろう。

まず間違いなく、「アイツが?え、なんで?」と困惑から始まり、そこに立つだけの実力があるんだろうなと、冷めた目で品定めをされる。

観客は楽しめるものを求めている。貴重な時間の中で、好きでもない奴のステージを見せられるなら、文句のつけようがないくらい高いレベルでないと受け入れられない。仲間のいない人間は、求められるもののハードルが高いのだ。

音痴ではなかったが、カラオケでも緊張して満足に歌えない自分には、舞台で完璧に歌って生徒たちを魅了する自信などとても持てなかった。

 

この思い込みには、一つ根拠がある。

正直なところ私自身、学祭のステージで有志が披露する歌を聴いて、うまいと思ったことはなかった。

出演の志願すらできもしない、勇気のない自分は棚に上げて、「うまくもないのに人前に出て恥ずかしくないのかな」「うまいつもりでいるんだろうけど痛々しいな」と見下してさえいた。

自分がまさに、出演者たちを冷めた目で見ていたのだった。

この実体験のせいで、自分も人前に出れば観衆たちからそんな風に思われる可能性がある、と恐怖を感じていた。

「うまくもないのにうまいつもりでいる痛い奴」と失笑され、校内で噂のネタになり、どこを歩いてもすれ違いざま好奇の目を向けられることになるのは明らかだ。

 

目立つ子たちは歌がうまくなくても、大勢に好かれているから許される。うまくやって評価され、まず受け入れられることからクリアしなければならない自分には、楽しく人前に出るだけで見る側にも楽しんでもらえる有志たちが、許せなくもあり羨ましくもあった。

人前に出ることで悪目立ちする自分の未来が目に見えて、そんな仕打ちを受けるくらいならわざわざ学祭を訓練の場として選ぶ必要はないと思った。もっともらしい、逃げる口実である。

 

そうして毎年一度の、憧れを叶えるチャンスをすべて放棄してきた結果、どうだろう。何も得ず、後悔だけを抱えて満足など味わったことがない。

 

また逃げていいのかと私が言い終わる前に、嫌だと答える私がいる。

自分で決めた道で、成果が欲しい。

変われない自分を、もう捨てたい。

 

私、怖いけれどこっちがいい。

やりたいけど怖い。でも根底にあるのはどっちだ。やりたいか、やりたくないか。

「やりたい」に、決まっている。

やりたかった思いも、怖い思いも認めた上で、やっぱりやってみたいという気持ちが残ることに気がつく。

これはきっと受け入れるべきなのだろうと思った。

 

やりたいことなら、どこかで必ずはじめの一歩は踏み出さないといけない。

笑う人もいるかもしれないし、受け入れられず批判されるのも怖い。傷つきたくない。だが所詮そんなものは、いずれ忘れ去られる一時の恥でしかない。

人前に立って見られれば、どのみち見た人には何かしら思われる。良い感情、悪い感情、どちらを抱く人もいて、こちらが操作できることではない。

どんなに経験を積んで支持を得ても、この条件が変わることはない。人目につくとはそういうことだ。

 

すべてが終わってしまってから、なす術もなく、行き場のない思いを持て余すだけの後悔は、今まで何度も経験してきたはず。

心の隅では人前で歌ってみたいと望み、舞台に立つ自分を想像して憧れを抱きながら、「自分なんかにふさわしくない」と本心に蓋をして、保身と引き換えに挑戦の機会を失って。

そのたびに「恥をかいてでもやればよかった」と悔やむ自分が確かにいたことを、誰よりも知っているのは自分ではないか。

 

逃げるのは簡単だし、苦労もしなくて済む。傷つかず、安全が保障される。平穏で、何も起きない、でも何も進まない、何も育たない。

ただひとつ、「やっておけばよかった」という、二度と戻らないチャンスを失った虚しさだけが残る。やれなかった自分を、また悔やむことになる。

嘆いたところでもうどうすることもできないという事実ほど、つらいものがあろうか。

それならば、やってみてどんな目に遭っても経験値になる方が絶対に良い。意外に受け入れられるかもしれない。今はもう、自分を分かってくれる友達もいる。甘えるようだが、味方がいる環境でなら耐えられそうな気がした。

 

踏み出すのはいつでもいいけれど、今でもいいんじゃないか。

迷うのは、やりたいからだ。迷いは、「やりたい」を邪魔する気持ち。やりたくなければ、迷ったりなどしない。

進んだ先の厳しさより、何もせずに終わる後悔の方が怖い。

 

「もう、変わりたい。」

 

その思いに突き動かされ、恐怖も、迷いも振り払い、1年生の冬にようやく私は入部届けを書いて、大好きな友達が待つ部室へ向かった。

見学者ではない、「部員」として。

 

変わることへの不安が消えはしなかったが、変わろうと決断できたことで成長したように感じられ、心の奥でまだ「やめておけ」と引き留める臆病な自分へ宣言する。

 

ああ、やめるよ。

逃げることを ね!