②すごいひとになったらいいとおもったんだけど

どこにでも、大勢の中で抜きん出た「出来の良い子」という存在はいるものだ。そして、そのように優れている子は周りからよく褒められ、憧れの的になり、生きる姿が輝いて見える。羨ましいけれど、どこか近寄りがたい。あんなふうになれたらいいなと思うも、自分ではとうてい手が届かない、住む世界が違う。となりに並ぶと自分が見劣りして恥ずかしい。少なからず似た経験があり、共感する人もいるのではないだろうか。

 

優れていると褒められるらしい。

学校という狭い世界のさらに狭いクラスの中、そこでもやはり、それぞれの得意分野においてひときわ高い評価を受けている子たちがちらほらといた。散々笑い者にされ、けなし言葉を浴びせられ続けてきた私は、そんな彼らが羨ましかった。

もしかして、何かに秀でていれば褒められるのだろうか。価値あるものとして認められる喜びを、彼らのように味わうことができるのだろうか。

私も、優れたことができて輝いて見える子たちのように存在価値を見出されたい。ひどい扱いをしてきた人間たちを見返したい。

検証してみることにした。何かひとつでも一番になってやろうと思い、テストで良い点数をとるのはもちろん、作文や絵・楽器・手芸などにも本気の集中力で取り組み(運動は不得意なので平均水準で妥協した)、服やバッグ・文具なども魅力的に見えるよう気をつかった。手当たり次第に、褒められそうなことを試した。

結果、優れているとみなされたときに褒めてもらえるという仮説は正しかったらしく、版画が文集の表紙を飾ったり、裁縫がクラスの誰よりも速かったり、かわいく見えるものを持っていたりすると、周りは私の出した成果に感心して尊敬の目を向けた。

すごいね、頭いいね、器用だね、それほしい、どこで買ったの、なんでも持ってるね

褒められたとき、私はこの世に存在をみとめられ、生きることを許されたような安心感で満たされた。そりゃあもう、最高の気分である。私だって、尊重されていいのだと。

やらなきゃいけないからやっている、ただそれだけで他に目的などない、生きるという嫌な作業を仕方なくこなしていた日々。“面倒事を避けるために耐えるべき面倒”としか思っていなかった学校生活に、一筋の光がさすのを感じた。

 

比べて、”勝ち”とる、価値。

しかし、優れていれば褒められることを覚えてしまったがために、人間の価値をはかる尺度が能力の優劣であると脳には刻み込まれたらしい。

そのせいで小学校高学年からの私の行動は、価値ある自分として認められ続けるために力を尽くすという、承認欲求にまみれたものとなった。

落されてばかりだった自分が、持ち上げられる快感を知る。気持ちの良い環境で生きていたいとおもうのが動物というものだ。快いものを知れば、もっと得たくなって当然なのである。

では、優れているかどうかは何によってきまるのか。答えは簡単、「比較対象」だ。私は、常に人の能力を見定め、勝てると踏んだところを攻めて優位に立ち、誰よりも高い評価を得ようと努力するようになった。「比べる」ということを、始めてしまったわけだ。

強い者に逆らわず、沈黙して身を守るだけでは足りない。自分も力をつける必要がある。

もう屈辱を味わいたくない。私にだって価値はあると皆に知らしめたい。周りに、勝ちたい。

かつて私を罵ってきた者たちも、いつまでも弱者を踏みつけていられると思ったら大間違いだ。馬鹿にするな。

そんな、どす黒い感情に支配されて、私は「生きたい」という気持ちを覚えた。

 

一筋の、光―――

熱い蛍光灯の光にさそわれ、近づいた虫たちはその身を焼かれて命を焦がす。

愚かにも醜い欲に捕らわれて蝕まれていく心の末路を、子どもの私には知る由もない。

 

生き延びる知識を携え、赴く新たな戦地にて

中学に上がり、違う小学校だった子たちと出会う。幸か不幸か、周りにはどうやっても敵わないと思える存在が山ほどいた。スポーツ万能な子、塾通いでシャレにならないくらい成績が良い子、芸術の才能を秘めた子、モデル顔負けの容姿を持つ子など。

加えて、極端に成績が悪かったりする子も少なくなかったので、小学校の時ほど過剰に見下されることを気にしなくてもよかったし、上を目指して必死になりすぎる必要もなかった。またみじめな目に遭わされないよう、せめて恥をかかない程度に、授業・行事・なんでもない時間、それなりに気を張っていればよかった。

それに、依然としてジャイアン女との行動を強いられる場面はあったものの、向こうにも私にも新たな友達ができたことで距離を置ける時間も増え、少しだけ気疲れが軽減されていたようにも思う。

他校出身の心優しい子たちのおかげもあり、私はとくべつ不自由することもなく、周りと変わらない普通の生徒として平和に中学生活を送れていると思っていた。

―――そう、「思っていた」のだが・・・。

 

あ、身分制度があったんですね

ある日の休み時間、クラスで人気者の女子が私の長い髪を触りたがり、編んだりお団子にしてもらったりして一緒に遊んでいた。

友達に困らないはずの彼女が私と接してくれることに少しの疑問を覚えたが、気にかけてもらえるのはやはり嬉しいものだった。

しかしそこに彼女と仲のいい女子のひとりがやってきて状況は変わる。私たちを見るや否や、

「なんでその人の髪なんか触ってるの?」

と、まるで私など見えていないかのように言い放ったのである。

言われた彼女は特に気にしていないようだったが、私は自分のせいで友達が馬鹿にされてしまったことが申し訳なくて仕方なかった。

しかも何の遠慮もない物言いだったことから、言葉に気をつかって思いやるべき対象として認識されてもいない。私は、「堂々と目の前でけなしてもかまわない人」だったようだ。

 

身分の差を思い知ったような気分だった。分をわきまえろ、ということだったのだろう。私と関わることは、汚点になるらしい。

結局、どこにいようとこんな扱いか。

彼女は誰からも好かれる人気者。自分なんかが付き合っていいような相手ではなかったのだ。

優れた人に釣り合うのは、同じく優れた相手。私であるべきではない。私は人に害を及ぼす。私といたら友達が馬鹿にされてしまう。友達を守るためには、関わらないであげることが最善なのかもしれない。そうすれば被害を与えることもないし、いずれ自分の醜さが浮き彫りになって一緒にいるのがつらくなるようなこともない。

大事な友達が自分のせいで傷つくのは耐えられない。それなら自分だけがさみしい思いをする方がまだましだ。そう思い、私はしだいに人を拒むようになった。

 

知識に欠陥。返り討ちに遭う。

ちょっと考えればわかることではあった。同級生たちの交友関係をよく観察すると、人間関係も身分も、能力で決まる図式が見えるようだった。

運動が得意な子・成績上位の子・おしゃれに敏感な子・文化系の子、それぞれの分野において話が合う者同士でグループが形成され、似通ったメンバーが集う。

各グループ内で求められる知識や能力のレベルに達していればメンバー認定を受けて友達にしてもらえるが、ついていけなければ「なんかこの人は違う」と警戒され、最悪、敵とみなされる。基本的に異なるグループが交わることがないのもおそらくこの為だろう。

つまり、同レベルの能力であることを認められないと排除されてしまうのだ。

そして、ごくわずかだがどこにも属せない子も一定数おり、彼らは遠巻きにされ、周りと違うことや孤立していることを笑われさえする。

私は、まさに無所属組のひとりであった。いくら優しい子たちが仲良くしてくれても、拒む以前に話が弾まず、結果的に長続きはしなかった。特に熱を注いでいた趣味もなく成績も平凡で、世間の流行にも興味が薄かったため、どんな話も感情移入できずよくわからなかったのである。

あらゆる行動は承認欲求のためにやっていただけで、自分の意志でやりたくてやっているわけではなかった。中身のない私は当然何にもついていけない。それどころか、雑に扱っても差し支えない奴として見られていたことにも気付かずにいた。あまりの愚かさに私は、また私を嫌いになった。

どうせ自分なんかもともとダメだったではないか。何をやっても人並みかそれ以下にしかなれない上に、存在が人の害になるときたものだ。そしてどうせ人はみんな私を馬鹿にする。やっと自分の価値を認めてもらえる方法がわかったのに、劣等感と人間嫌いに拍車がかかり、よけいに卑屈になって孤立しただけだった。

優れた存在に見劣りしかしない自分を、ひたすら嘆いていた。

 

ネガティブ少女に救いをもたらす、「大好きなこと」

それに出会う、まだ少し前。