自信へのマイナスイメージ、自身へのコンプレックス。

私は、自分に自信を持つことは「自分の人間的価値を自分自身で認めること」だと思っている。長所も短所も含め、どんな自分であっても人としての価値があるものだ。現に欠点があったとしても、誰ひとり人権が損なわれるようなことはない。

外見に関しても同じだ。一般に美人だとかイケメンなどと言われる見た目の人もいれば、そうでもない人もいる。どちらかといえば私はおそらく「そうでない方」だが、見た目が良い人たちと人間的価値に差があるわけではないので、特に引け目を感じてはいない。

 

ただ、自信を「自意識過剰」だとか「自己陶酔」というふうに捉える人も多い。世の中には遠目に他人の姿を見て、あいつはおかしい・あれで格好良いつもりなのか・キャラじゃないくせにあんなことをやっている…などと噂を立て、人の価値を落とそうとする人たちがいたるところに潜んでいる。自信を持って生きている人を馬鹿にして楽しみたい者たちだ。

彼らに目をつけられることを恐れた人は、やりたいことがあっても周りが気になってできなくなってしまう。標的にされれば容赦のない攻撃が飛んできて、心にひどい傷を負ってしまうからだ。そうして何をするにも本心を抑え込み、自信を持つことをやめていく。

昔の私はまさにこうであった。「自信を持つにふさわしい人間でもないのに自分に価値がある気でいる痛々しい奴」として見られることを恐がり、自信をまったく持てない人間だった。

 

自信はキケンで非常識。

かつての私にとって、人目を気にせず、自分に自信を持って生きることなど普通でない、ありえないことだった。

というのも、何をやっても悪い評価をしてくる人が近くにいる、そんな日常に身を置いていたからだ。本人に隠れて、時にはわざと聞こえるように。

自分が落とされるばかりでなく、学校でも外でも、常に誰かが誰かの陰口を言っている。身近な人への批判にとどまらず、テレビを見ながら出演者をことごとくけなす人だっている。いつも周りには、人の価値に傷をつける人がいた。

 

人に見られれば、必ずけなされると思え―――これが自分にとっての常識であり信念に等しかった。人を恐れなくていいのは優れていることを誰からも認められた力のある者、もしくは他者を思い通りにできてしまう強い者だけ。そうでもなければ傷つけられる。

人目を恐れず本心でふるまえる人はうらやましくもあったが、無謀だなと思うのが正直なところだった。弱者の身分でよくそんなことができるものだと非常識にさえ思えた。

私は、周りからどう思われているかもわからないまま、すすんで笑い者になってまで好きなことをする勇気はとても持てなかった。

 

私の見た目、悪いんですって。

しかし、どんなに気をつけていても、何もしなくても、存在しているだけでなぜか馬鹿にされるという事態もある。説明はつきそうでつかない感じだけれど、実体験なのだ。

特に原因はないはずだったが、馬鹿にされるのは見た目のせいなんだろうなと、成長していくにつれて薄々気づき始めた。私は自分の見た目が大嫌いだった。

 

もともと、見た目の良し悪しの基準は自分の中にはなかった。特定の誰かを見て美しいとかスタイルが良いなどと思うことも、逆に醜さを感じることもない。判断材料がなかったためだ。

我々は人の中で生きているうちに、何が良くて何が悪いかを人から学んでいくものである。それは見た目に関しても同じであった。

家庭、学校、メディアで触れる人々の言葉に影響を受け、どのような顔がかわいい・どれくらいの体型が褒められるなどのデータが頭に蓄積される。そうしてとれたデータをもとに、大衆から評価される人の傾向を知り、「良い外見」の基準を作り出して自分の中に設けるのだ。

 

この学びから、見た目が良いか悪いかの判断を下せるようになってしまったことで、今度は自分たちで優劣をつけるようになる。実践編だ。学校ではクラスメイトたちが、クラスメイト同士を比較して、誰がかわいい、誰がブスなどという言葉を飛ばし始める。

例に漏れず、私も比較はしていた。とはいっても、自分と他の子を比べて劣等感を抱くだけで、他人の悪口を表に出すことはあまりしなかった。人と話すことが嫌いだったし、自分が人のことを言える身分ではないと思っていたからだ。

 

私自身が実際に顔や髪型、体型を馬鹿にされることも多く、自分でも周りの女子と比較したらかわいい部類でない自覚はあった。

良くも悪くも特徴のある顔ではないし、変わった髪型もしていない、標準体型であったのだが、交流あるなしにかかわらず多くの人からけなされるうちに、自分の見た目は悪い方なのだと思うようになった。こんな外見だから、笑い者にされて当然なのだと。

ちなみにこれは、中学1年くらいの自分。地味だったが、別にすごく変なわけではなかったと思う。

 

「私なんか」が、はじまった。

しだいに私は、自分の見た目に気を遣うことを諦め、投げやりになっていった。何をやっても馬鹿にされるのが目に見えていて、努力してもいいことなんてないように思えた。

どう思われても今の私は気にしないので何とでも言ってくれてかまわないのだが、子供時代から私は着せ替え人形のドレスやアイドルのコスチュームなどのかわいらしい服装に憧れを抱いていた。七五三の時、写真館でレンタルドレスを着られる機会なんかはとても嬉しかったものだ。

かわいい服を着て、かわいい髪形をして、かわいい女の子になりたい。実にピュアな乙女思考であった。

 

だけどこの世は、周りを気にせず好きなことをして無事でいられる世界ではない。やりたいことをやって自分が満足できても、けなされるから人目にさらすことはできない。やりたくてもできないのだ。

それに、どうせ限界があることも知っていた。何を着てどんな髪型をしても、自分で自分を良いと思ったことなどなかった。

顔も髪も体も服もきれいにしていたいのに、馬鹿にされてきた心の傷がブレーキをかける。きれいな格好はかわいい子がするからかわいいのであって、醜い私がいくら頑張っても、ちぐはぐで滑稽になるだけだ。

 

結局きれいなものは自分にふさわしくない、望んではいけないものだと思い知らされる。何をしても無意味に終わるように思えて虚しかった。

不細工が、ちょっと不細工に昇格する程度。所詮は不細工の域を出ない。どんなに努力してみても不細工でしかない自分に、期待などできなかった。

 

自分だけを否定していたつもりが・・・?

周りが自分を落としてくる人ばかりで、自分を良く言う人などいるわけがないと思っていた。そして自分自身でも自分のことを、顔も体型も醜い不細工な女だと思っている。

そのせいか、まれに人から見た目に関することで褒められると理解がまったくできなかった。正確には、理解しようとしなかったと言うべきだろうか。

 

親しい友達にはさすがに疑念を持ちたくなかったが、感謝よりも疑問がわいてしまうのが本音だった。自分には褒められるような部分などないと思っているから、起こりえないことが起こった感覚なのである。

気を遣われたか、触れてやらなければいけないと思わせたか。本心から私のことを良いと思ってくれての言葉だとは、どうしても考えられなかった。

 

自分自身を嫌っていた私は、その嫌いな自分に価値を感じてもいなかったので、価値を感じないものを褒められたところで共感などできなかった。たとえるなら自分の大嫌いな食べ物を好んで食べる人の気が知れない、あの感覚だ。

そのため、素直な褒め言葉をかけられたときであっても、歪んで解釈したり否定したりして受け取ろうとせずにいた。人の気持ちを粗末に扱ってしまっていたのだ。

自分という「人」を大事にする習慣がない者は、他人を大事にすることなどできない。持たないものを与えることは当然不可能だろう。無意識に私は、人を大切にできなくなっていた。

 

正しく持てば、自信は最強の味方。

思い返してみると、自信がないだけでたくさんの弊害があったし、過ちも犯してきたものだと感じる。被害者意識でいたが、何を言われても気にしない選択だってできたはずであった。

一番大きいと思うのはやはり、人の言葉を疑っていたことだ。自己否定は他者の否定につながり、自分も人も粗末にしてしまった。

自分を価値ある者だと認めることは、決して自意識過剰や自己陶酔などではない。自分も人も大切にする素晴らしい生き方だと思う。自分に価値があるのなら人にも同じく価値があり、どちらが上でも下でもなく平等に愛すべきものだと思えるようになるだろう。平等ならば、外見がどうであっても関係ない。

どんなことを言ってくる人がいようと、見た目が人間的な価値に影響することはないのだから、コンプレックスよりも自信を持つ方がずっと有意義である。過去の反省から、身にしみて感じることだ・・・。