人前に出るのが苦手で大嫌い、だけど遠くに住む相方と将来デュオを組んでシンガーソングライターになりたい。そのためにも苦手を克服して実践経験を積まなくてはいけない。もう変わるべき時だ―――
そう決心し、ついに大学一年の冬、ジャズ研究部に入部した。学内のイベントだけでなく、年に何度か一般客の前に出て演奏する機会もある。ジャズはよくわからなかったが、これで夢のために場数を踏める環境も確保した。
うまく事が運んでいる・・・そう感じていたが、人目に触れることに苦手意識を持ったまま入部している、この問題を抱えながら活動に挑むことになった。
苦手があると思うだけで試練の数は増える。「苦手」が意味するのは「やりたくない」だ。そう簡単に、思い通りの方向へ進めるのか。
歌いたいけど、歌いたくない・・・
友達が先輩たちに私のことを話してくれたおかげで、無事にボーカル担当の希望は叶えられた。しかし、今度は部員たちの中で歌うという難関を越えなくてはならない。
入部したとはいえ、すぐ全体練習に参加できたわけではなかった。部の雰囲気が和やかで、仲の良い友達もいるし先輩たちも優しい。まったく恐れるような環境ではないのだが、いざこの中で歌うとなるとなかなか勇気が出せなかった。
がっかりさせてしまうのが怖い。
歌ってもいいとは思っていた。思っていたのだが、期待はずれで落胆されることが怖かった。
子供の頃から私は、人から迷惑そうな顔を向けられることを常に恐れていた。私のせいで嫌な気持ちになったんだ、私がいるせいだ、私は人の迷惑になる害なんだ、と自分の存在自体が罪であるかのように思えてつらくなってしまうためだ。
部員はこれから一緒に音楽をやっていく仲間になる人たちである。全員から実力を認められなくてはならない。絶対に、落胆などさせるわけにはいかない。
正直なところ、緊張してパフォーマンスの質が落ちている状態でも、素人にしてはそこそこうまく歌える方だろうと自負していた。でもやはり、聴かれてどんな感想を持たれるかが気になり、部員としての一歩を踏み出すことに躊躇してしまう自分がいる。
もっとうまいのかと思ったのにがっかりだ、理想の声じゃない、なんて言われてしまったらどうしよう。迷惑がられながら部員で居続けられる気がせず、立ち止まったまま動けなかった。
認めてくれる人の前でないと不安。
普段から仲良くしている友達二人の前で歌うのはかまわなかった。というのも、すでに歌を聴かれたことがあったからだ。それに、自分の歌を褒めてくれたからでもある。
安心材料となるものは、まさにこの「高評価」であった。
「歌がうまい子」として認められれば、自分を肯定された気分でいられる。歌に関してすぐれていると評価をしてもらえるわけだから、安心して歌えるようになる。
しかしこれでは、確実に自分を認めてくれる人の前でしか歌えないという困った事態になってしまう。
部の中にいるは友達だけではない。友達以外からはまだ認めてもらえていなかった。安心して歌うために、どんな人の目にも歌がうまい自分として映りたいけれど、映るためには歌を聴いてもらわねばならない。そこが一番嫌なポイントだった。
私の歌を聴いたことがない人が一人いるごとに、いちいちハードルがある。この人は私をどう思うんだろう、あの人はどう思うんだろう、と。
大学で仲良くなった友達と初めてカラオケに行った時も、大好きな子たちと一緒に遊べてとても楽しいのに、歌の初披露の瞬間だけは本当に憂鬱だった。
自分を肯定してくれるかどうかわからない人の前で歌うのは、その後の心の安定にかかわる、ものすごくプレッシャーのかかることだったのだ。
どれだけカラオケに慣れてきても、心を開ける友達の前で歌えるようになっても、はじめましての人を前にするたび評価が気になって、肯定されるために自信のつけ直し。
誰の前でも臆せず歌える自信など、当時の私は持っていなかったのである。
肯定してもらえる、安心と思える環境でなければ、怖くて加わりたくなかった。
そのため、入部後もしばらくは「まだレパートリーがない」「どんな曲を演奏しているのかまず聴いて覚えたい」などともっともらしい理由をつけて、歌うことを拒んでいた。
その甘えを今すぐ捨てろ!
それでもやはり部員になった以上、練習に参加しなくては居る意味がない。自分の夢も遠のいてしまう。このまま逃げていてはいけないという自覚もあった。
入部から数週間後に四年生部員の卒業記念セッションが予定されており、曲決めのミーティングの際に私も参加する流れになった。
このときの素直な心境はというと、全く楽しみではなく、歌いなよと言われただけで緊張して鼓動が速くなるほど憂鬱だった。
ここでも、ジャズがまだよくわからないから歌えるかどうか・・・とハッキリせずに渋っていると、ついに私の消極的な態度に呆れたであろう一人の先輩が動く。
「歌いたいの?歌いたくないの?」
そう問われ、私は自分の間違いをやっと認識する。迷惑になりたくない思いは、一見、人を傷つけたくない気持ちのようだが、実際は違う。自分が傷つきたくないだけだ。迷惑になったことに対して、自分がショックを受けるからである。
言うまでもなく、やるべきことをやろうとしない人間の方がよっぽど迷惑だろう。それにまず部員の中で歌えないことには、この団体の一員としてイベントに出演すらできない。
目的のステージ経験が、いつまでも叶わない。
私は部活に入っただけで、前進している気になっていたのだ。「苦手を克服しなければ」「ステージ経験をしておかなければ」という義務感だけをただ持って、一番重要な「歌いたい」気持ちは抜け落ちていた。
歌いたいから、歌える環境に飛び込んだのではなかったか。
いい加減、甘えの気持ちを捨てて、自分が選んだ現実を受け入れるんだ。
歌いたくないといえば解放される。誰に強制されたことでもないので、どんな選択をしようとかまわないし誰も損はしない。でも私には、相方と二人で目指す夢がある。ここまできて引き下がることなどできない。
覚悟を決めて「歌わせていただきたいです」と答えると、それでいいと言うように、その場にいたみんなが笑って頷いてくれた。
(あ、認めてもらえた・・・?)
自分の中でひとつ、ブロックが外れた気がした。
どう思われるかまだわからないけれど、ここで歌うことにもう恐怖はないかもしれない。私はみんなの仲間になれたようだと、そう感じる瞬間だった。
きっと自分は変われる、変わるために歌いたい。過ちを認めて決意を新たにし、ようやく本当の部員としてスタートを切れたように思えた。
ボーカリストデビューの日。
部員たちの予定が合わず全体練習ができないままぶっつけ本番になったが、当日はまるで普段の練習と変わらないような穏やかさで、とても良い雰囲気だった。卒業する先輩と部員たちが思い出を振り返るように数々の曲を演奏する光景は、彼らの信頼関係がよく見えて心が温まる。
このまま観客で終わってもいいくらいだと思ったほどだが、今日は私も参加者だ。そろそろ歌う?と声をかけられ、ついに出番を迎える。最初で最後の構成となるメンバーで、デビュー曲「Fly Me To The Moon」の初披露。
今までずっと離れたところから眺めていた、演奏者たちの輪の中に入り、マイクを持つ。逃げ出さずこの場に立てたことに、まずひとつ満足感。
イントロが始まる。ボサノヴァの軽やかなリズムに心も弾む。キーはC、入りが少し高めで不安だが、出せる音域。
家でもたくさん練習したし、友達や先輩の個人練習に便乗して一緒に合わせたりもしてきた。緊張するけれど、大丈夫!
部員たちと目配せし、ベストタイミングで歌に入る。やはり人を前にして歌うと声が少し出しにくい。でも聞き苦しいほどでもない。2年前までカラオケすらビビっていたのに、進歩したものだ。
順調にメロディーは進む。周りを見る余裕が少しだけ生まれ、共に演奏する一人ひとりを見渡しながら歌う。目が合えば、笑いかけたり頷いたりしてくれる。
幸せな世界だな、と思った。「音楽」という、共通する好きなものをここにいる全員で分かち合う、喜びしかない空間。
担当楽器は違えども、みんなが今この瞬間を一生懸命に楽しんで、同じ曲を演奏している。
異なる音が混ざり合って、一つの音楽ができていく。
そしてその中に、私もいる。いつも一緒にいる友達も、すぐに仲良くしてくれた先輩たちも、ほとんど話したことがない人も、音の中で、私を迎え入れてくれている。
うれしい。初めての仲間と味わう、初めての楽しさ。
Fill my heart with song and let me sing forevermore
(私の心を歌で満たして そしていつまでも歌わせて)
Fly Me To The Moon歌詞引用
歌詞に、自分の思いが重なる。
あまりうまくは歌えていないけれど、将来のためにうまくならないといけないことは今だけ少し忘れて、ただの遊びのように、自分と同じく音楽を愛する仲間たちと、大好きな歌をずっとこのまま楽しんでいたい―――。
あっという間に終わった時間。締め方がよく分からず恰好がつかないラストになったが、ドラムの先輩の優しいフォローで何とかフィニッシュできた。
みんなが歓声を上げる。一緒に演奏できて楽しかったという思いに溢れた言葉を次々に注がれる。
その中に「うまい」がなくても、歌ったことそのものを褒めてもらえて、不思議と満たされる感覚だった。
練習してきた成果の6割くらいしか出せなかったが、初めて1曲のボーカルをメンバーとして務められたし、好きなことを好きな者同士で共有できた時間はとても幸せだった。
今回は、これでいいかもしれない。今までは納得いかなかったはずの結果なのに満足できたことが、なんとも新鮮であった。
第一関門突破で、ようやくスタート地点。
初セッションを楽しみすぎたせいかその夜は熱を出して寝込んだが、それもまた思い出だ。これからはもう、ためらいなく演奏に参加できると思った。
結果がどうあれ、やってしまえば「できた」と記憶される。次からはその、できたことをまたすれば良い。できなかったことの改善も次回からということで問題ないだろう。
一番の成果はとにかく、「歌いたくない」を捨てられたこと。「やりたくない」がひとつ減り、人目につくことへの苦手意識がだいぶ薄れた。
しかし、観客を前にした実践経験はこれからだ。バンドメンバーに加わって歌うという、最初の大きな試練を乗り越えた感覚だったが、あくまでもこれはスタートラインまでの道のりにすぎない。
本当の戦いは、ここから始まる。