⑪逃げることはとても楽で、とてもむなしい。

やりたいことはあるけれど面倒、今は気が乗らない、できるか不安・・・そんな理由で目の前のチャンスから逃げ、やれる機会を失ってしまってから貴重さに気が付く。「もっとやっておけばよかった」と後悔したところで時間は戻ってこない。誰しも、出来事の大小問わず経験があるのではないだろうか。

学生生活などはまさに、そういった逃げと後悔の宝庫であると思う。

 

学びたいことももちろんあったけれど、音楽ができる部活に入りたいと思って大学に入学した。だが心の準備に時間がかかり、入部できたのは1年生の冬。この時点で1年近く失っており、在籍可能な期間は実質3年程度となった。

2年生が終わろうとしている頃、部員として1年を過ごして、日常になりつつあるボーカリストの立場や練習できる環境。当たり前になればその分、ありがたみも薄れていくが、私は当たり前となったものたちを最後まで大切にしきれるのか。

残された貴重な時間を、「貴重だ」と認識しつづけられるのか・・・。

 

気楽になって楽しくなった、充実の年。

卒業式を終えてまもなく新年度。ハイレベルな4年生が去り、ハードだった年を終えて部員たちはそれぞれ少なからず疲れていた。新学期を迎える前、入学式での演奏に向けて練習を始めるとき、「今年は楽しもう」と全員で話し合ったものだ。

前回、楽しみたかった気持ちが解放された私は、気楽に付き合える仲間たちと楽しく音楽をやりたい欲求がピークに達していた。

そうして迎えた3年生での部活動は、ずいぶんと精神的な負担が減って楽なものだった。たまに突然来ることがあったプロ顔負けの音楽スキルを持つ他大学の上級生たちも、就職活動の年になってほとんど訪問してこない。

部内は緊迫感がなくなって入部当初のような和やかさを取り戻し、みんな楽しそうにしている。私も極端に上級者たちの評価を気にして硬くなることなく、だいぶリラックスして練習も本番も歌えるようになっていた。

 

開放的な雰囲気になったことで、私たちはそれぞれ演奏したことがなかった曲に色々挑戦してみるようになり、刺激のある活動の中で意識も高まっていた。夏から秋にかけては曲数の多いライブを2本こなし、全員かなりの成長を遂げたように思う。もちろん私もそうだ。

ハイレベルを要求されるような苦しさに囚われることもなくなって、気を張らずに歌えるようになってうまく歌える曲も多くなり、たくさんの曲に挑戦して歌だけでなくピアノのレパートリーも増え(部活の中で少し勉強した)、何よりとても楽しめた。

 

中でも個人的に思い入れのある演奏は、入部当時の部長だったギターの先輩と(3年生時点では同級生女子が部長を務めていた)二人で作ったオリジナル曲だ。秋の大学祭で観客が少し引いた時に遊び感覚で披露した。

苦手な音が多く、そんなに納得のいく歌とは言えなかったが、歌がこんなに楽しかったかと驚くほど、心が満たされた。というのも、演奏しながら将来相方と二人で自分たちの曲を歌っている想像ができたからであった。

ギターとボーカルの編成で少し理想の形とは違うものの、デュオで舞台に立つという体験を現実でしたことで、憧れている未来の自分の姿を臨場感高くイメージすることができたのだ。

 

仲間たちと楽しめて、なかなかに満足のいくステージも経験できた。いろいろ苦しいことはあったが、辞めずに続けてきてよかったと思ったものだった。

 

充実しすぎていたせいか・・・

しかし、大きなイベントを終えた秋の時点で私は、思い残すことがないくらいの達成感を得てしまった。引退まで1年と少しあるにもかかわらず、部活での次の目標がなくなったのである。

 

オリジナル曲を演奏したことが特に大きな影響を及ぼしたように思う。相方との夢をイメージしたと先ほど述べたが、要は「自分が本当にやりたいことはこれだ」と思える体験だった。

裏を返すと、ジャズが、自分のやりたいことではないと気づかされるきっかけになった。

これ以上ジャズを続けたい理由がなくなってしまったのだ。

 

もともとこの部活に入った理由は人前に出る経験を積みたかったからで、ジャズをやりたいからではない。活動内容となる音楽ジャンルは、目的達成のための手段にすぎなかったため、言ってしまえば何でもよかった。

知らなかった曲を少しずつ覚えてきて楽しくはなっていた。けれど、部に所属する上でやる必要があったというだけの馴染みの薄い外国の音楽と、心からやりたくてやったオリジナルの音楽とでは満足感がまったく違うことを知ってしまい、続けていくことに違和感を持つようになった。

どうせ将来はオリジナルの曲をやっていくから、ジャズの必要性を感じなくなった自分もいる。

徐々に私は、歌いたくはあるけれどジャズをやることに対しては気が進まなくなり、もう充分かもしれないと思うようになっていった。

 

それに私は入部当初、人前に出て歌えるようになることを目標としていた。部員たちと共に練習する中で人目に触れることに慣れ、ステージ経験も複数回積むことができて、観客の前に立つことに抵抗もだいぶなくなった。

この時点で、はじめに持っていた目標は「できるようになったこと」として脳に刻まれてしまっていた。ゲームで言うところのクリア済みエリアの如く、もう攻略し終えた課題という認識なわけだ。

うまく歌えた実績が少ないのでまだ修行は必要だったはずだが、「人前に出られた」という既成事実により、成果の内容を問わず目標を達成できた気になっていたのである。

 

人前に出ることまでがミッションだったのなら、完遂してしまえばもうやるべきことはなくなる。よって、これ以上人前でのジャズの演奏を続けていく理由はほぼ残っていなかった。

ジャズはもう、やりたいことではなくなったばかりか、やるべきことでもなくなってしまった。

 

実はだいぶ重大な見落としがあった。

3年生になってから気を許せる仲間たちとリラックスして楽しめるようになったことで、うまく歌える確率が上がり、だんだん場慣れしてきている実感もあった。しかしそうなったのは、「一緒にいると楽しめない人がいなくなったから」という理由にすぎない。

圧倒的な実力があって理想が高い先輩と音楽をやっていると、いつも緊張して萎縮してしまい、自分の歌に対して何を言われるか怖くて音楽が楽しくないものになっていた。自分の力に自信がなく、迷惑になったらどうしようという不安を抱いてしまっていたせいである。(第九話参照)

そんな、自分にとって脅威となる人が卒業したことで、不安を抱く種がなくなったというわけだ。

 

だが、また同じ状況に見舞われたとしたらどうだろう。同級生や後輩の中にとんでもない音楽技術や才能を持つ人がいて、そんな逸材が入部してきたら。せっかく気を楽にして演奏できる仲間たちと楽しくやっていたところに、自分との力の差を見せつけられたら。

言うまでもなく、再び同じことで悩み、苦しみを繰り返すことになる。原因が取り除かれただけでは解決にならないのだ。

 

人前で歌える自分へと変われてはいるけれど、根本的には変われていない。

つまり、私が楽しんでそこそこうまく歌えるようになったのは不安の種がなくなっただけであり、「どう思われようが気にせず楽しんで歌うべきだ」という考えに変わったわけではなかった。

けっして、「どう思われてもいい」とは思っていない。楽しみたい気持ちには気づけたし、仲間たちと楽しく演奏することを大事に思えるようになった。それでも「プロを目指すならうまく歌えて当然」の考えに変化はなく、無様に失敗する自分を許せるようになったわけではなかった。

私は、誰からどう見られても自信を持てる自分にならなければ意味がなかったのである。

 

この問題が解消されていないとどうなるか。自分を肯定しない可能性がある人の前ではあまり歌いたくない、という状況である。

誰かに見られる以上、すべての人から良く思ってもらえるとは限らず、欲しい評価を得られない可能性が絶対にある。人目があれば必ず、緊張により失敗して批判され、恥をかき、傷つくリスクはつきまとう。

誰だって、リスクはとりたくない。やりたくないことのために苦労はしたくない。「避けたい」と、思うわけである。

どんなに慣れたところで、人目に触れることは結局「やらなければならないし、やってもいいとは思うけれど、できればやりたくないこと」のままだった。

 

逃げる言い訳を考え始めた。

人間という生き物は、可能な限り楽をしたい性質を持つ。やりたくないことがあれば、やらなくて済むように動く。

嫌いな学校行事・面倒な仕事・気が乗らない誘いなど、行きたくないからどうにかして休む言い訳や断る理由を探し、さらには自分が悪者になってしまわないように、正当な理由だと思ってくれそうなことをわざわざ言って保身までする。そんな経験がある人は多いのではないだろうか。

嫌なことに出遭うと、義務的なものでない限り、基本的に人は逃げる努力をするようになってしまうのだ。

 

3年生の後半あたりから、私は何かと理由をつけて部活を休むことが増えていった。ジャズをやりたい気持ちがほぼなくなって、ステージ慣れしたつもりになっている。そのうえ普段の練習も、来てほしくない外部の上級者が不意打ちで来る可能性があるため、楽しくはあるけれど正直気乗りしない部分もある―――

歌が好きな気持ちや夢への憧れは変わらなかったため適度に参加はしていたが、やりたくない理由の方が多くなってしまったことで部活に対する意欲は急落していた。

欠席の言い訳はよくある体調不良のほか、「明日提出の論文が終わらない」「プレゼンの準備がある」といった勉強関連だ。

嘘はつきたくないという良心から、一応真実ではある事柄を並べていた。3年生は授業内容が専門的になって毎回の課題も多く、部活の日の翌日が提出期限ということもよくあった。

それを少しばかり利用し、本当は帰ってからでも間に合いそうな課題であるのに大げさに言って、自分の立場を守りつつ部活へ行かなくて済む理由としていた(嘘でなくともやり方は充分汚い)。

 

やりたい気持ちを無視すると、

逃げれば、やりたくないことから解放されるので当然楽になる。しかし、少しでも「やりたかった」という気持ちがあったとしたら?

やろうと思えばもっとできた、やっておけばよかった―――そんな後悔を残すことになる。

 

部活を休んで、言い訳をして、行かなくてよくなって、家に着き、自由な時間が手に入った日。楽だったが、いつも「少しくらいなら歌って帰ってもよかったかな」と、わずかな心残りがあった。

自業自得だと感じつつ、次は後悔しないようにきちんと練習に行こう、とその時は思うものの練習時間が迫るとまた面倒な気持ちになる。結局今日もやめておこうかと思ったり、行っても早めに帰るか遅めの時間に顔を出すか・・・といった怠惰を続けてしまう。そうして私は、じわじわと貴重な機会たちを逃していった。

 

防音設備の整ったスタジオを、キャンパス開放時間内であれば無料で好きなだけ使える在学生の特権がいかに恵まれたものであったか、私は卒業してから気づかされることになる。

他の民営スタジオやカラオケは利用した分だけ料金がかかる、家では近所迷惑を気にして大声で歌えない、車なら許されるがマイカーはないし持つ気もなかった(25歳の時に持ったが)。

案の定、逃げて楽になる方を自分で選んでおきながら、「もう少し歌いに行っていればよかった」と後になって悔やむ始末である。失うまで気付かないとは、何とも愚かなものだ。

 

余談:ライブ直前に逃げてアホみたいに後悔したアホな話。

3年生の年、とあるライブの数日前から喉の調子が悪くなり、本番当日まで治らなかったことがある。歌えないというほどではなかったが、部分的にかすれて聞き苦しくなる可能性がやや高めといった、思わしくないコンディションだった。

この日に予定していた曲は、ジャズの勉強のためにいろいろなCDを借りて聴いていた中で、曲調が気に入り歌ってみたいと思った曲だった。

自分から希望した曲だけあって練習は楽しく、本番が待ち遠しかったものだ。

 

しかし、当日の調子の悪さに焦りを覚え、出演時間が迫るにつれてどんどんマイナス思考になっていく。

集まった人たちに良いものを届けないといけないのに、今日の私はお客さんの前に立てるような状態か?ひどい歌を聴かされて観客を嫌な気分にさせないか?何よりも、全体の印象が悪くなって部員たちにも被害が及ばないか?

 

止まらないネガティヴの果てに私が辿り着いた、ひとつの結論がある。

今回は歌わない方がいいかもしれない―――そう思ってしまった。

 

歌いたかった曲だけど、どうせなら万全の状態で聴いてほしい。またライブはあるから、次の機会にしてもいいかもしれない。

そうすればお客さんも、部員たちも損はない。負担をかける部員もいるかもしれないが、こればかりは仕方ない・・・。

 

本番間近になって私は、「今日は歌わないことにする」とメンバーに伝えた。逃げる選択をしたわけだ。

その時のみんなの様子は忘れられない。何を言い出すの、というような迷惑そうな顔で変更点の打ち合わせをし(実際に絶対迷惑だったという自覚はあるので本当に申し訳なかった)、無言の無表情で本番開始を待つ。

 

私はというと、一応一緒にステージには立ったが、あってもなくてもいいような打楽器として後ろの方でひっそりと参加した。

演奏が始まり、みんなの背中を見ながら私は、マイクにも乗らないほぼ意味のない音を出す。私の歌う予定だったパートは、サックスとギターに変わった。楽器ならボーカルと違って喉の状態に左右されることなく、安定した音が出る。

最初は、これでよかったと思った。うまく歌えない可能性への恐怖から逃れられた安心感もあった。

 

しかし曲が進んでいくにつれ、むなしさが募りだす。本当なら私が歌っていた、やりたかった曲。

良い仕上がりにはならなかったかもしれないが、無理してでも歌おうと思えば歌えたのに。それでも逃げたい気持ちに負けて、自ら手放して、失ったこの舞台でのチャンス。

ひどい歌を聴かせたくない?そんなものは建前だ。しょせん本音は、自分が傷つきたくないだけ。ひどい歌を披露して恥をかきたくなくて、自分を守りたくて逃げただけ・・・。

特に必要もない人員として、元の立場を放棄しておきながら「逃げなければよかった」などと後悔を抱えてステージに立っている。この方が、人間としてよっぽど恥ずかしい。

 

何を成し遂げた気もしないまま、喪失感だけを抱えて家に帰った後、自室に寝転がりながらただ脱力していた。

私は何をやっているんだろう、何のために練習してきたのだろう、軽い気持ちで逃げて後悔して、なんて私は勝手で馬鹿なんだろうと、むなしさしかない時間をその日はひたすら過ごした。仲間に迷惑をかけた上にプラスの感情など一つも残らない、ただただ後味が悪いだけの思い出である。

 

やらぬは永遠の後悔・・・

目先の恐怖や面倒に気を取られて、楽な方へ逃げるのは簡単なこと。だが、苦のように思えるそれらのほとんどは、ほんの少し耐えればいいだけの、一時のものだ。

もう二度と戻らない自ら捨てたチャンスを、戻らなくなってしまってから悔やむことほど、不毛なものはない。わずかでもやりたかった気持ちがあった場合、必ずやっておけばよかったと嘆くことになるのだから。

時は遡れない。未来で同じような状況に出くわす機会があっても、「今」は一度きりである。

 

逃げたくなる時、逃げる前に自分自身へ問いかけてほしい。今この瞬間にしか存在しないチャンスを、永遠に失って後悔しないか、と。