⑬生まれてきて、ごめんなさい。

北海道から鹿児島までの就活一人旅を経て貯金をほぼ失った上、企業説明会で仕事についていろいろ聞いたものの全く興味を持てず、鹿児島で職を得られそうな成果もなく帰ってきてしまい打ちのめされた私は、鹿児島移住戦略を立て直した。

少しだけ地元に残って貯金を増やす必要がありそう、そして条件が良くても魅力を感じないものには本気になれない―――そんな、前回の失敗から得たものを今回に活かす。

次に挑むのは、雇用の正規・非正規は問わず、やりたいと思える仕事を見つけて貯金を作り、卒業後半年を目安に移住するという計画だ。アルバイトであっても魅力的な仕事があれば、在学中に始めてしまって卒業後にシフトを増やすなり社員登用を頼むなりすればいい。

今度こそうまくいくように、決意を新たにして私は大学4年生を迎える。

 

大衆の常識がいつも正しいとは限らないはず。

仕事は大学から紹介を受けることもできたが、当然ながら新卒採用の求人情報しか扱っていないので、あえて大学には頼らずに市内の仕事情報誌を活用しながら自力で探すことにした。

というのも、時期や雇用形態を問わずに募集している求人の多くは、応募から採用までのステップが少ないという利点があったからだ。

新卒採用試験はだいたい、選考が何度もある。選考に進むためのエントリーシート、筆記試験、グループディスカッション試験、そして何度かにわたる面接。これらすべてを通過して初めて内定となり、卒業後の進路が約束される。

こんな面倒なことを乗り越えないと社会人にすらなれないのか、と最初こそ絶望を覚えたものの、絶対にこの道を通らなければいけない決まりはないとも思った。

学内ではこの険しい試験の数々をこなして内定を得るのが当たり前という空気になっているが、私は本当にそれが最適な道のりだろうかと疑っていたし、何の疑問も持たずにこの厳しい就活に臨める他の学生たちの気持ちが理解できなかった。

それしか選択肢がないように思わされているのか、こんな苦労をしてまで会社というものに入りたいのか。入ってから理想と違った場合、入社までの苦難を思い起こして簡単に辞められない義務感と戦いながら、嫌々働き続けるつもりなのか。

 

新卒採用枠にこだわらなければ、履歴書1枚と面接1回で即採用となる職場など山ほどある。ならば、最短ルートでほしいものを得られる道を行く方が、時間も費用も精神的負担も少なくて済むし確実で良いではないか。

何度も苦労して試験を突破できたところで、入社後の給料がわずかばかり良いだけである。こんな無駄が多すぎるルートは選びたくないし選ぶメリットもないと思い、私は大衆の強い影響力に流されず、自分の信じた道を行こうと決めた。

 

でも大衆から外れるのも面倒なので…

だが、周りの大人たちから怪しい動きをしているように見られては、なかなかに厄介である。

目をつけられて捕まれば最期、自分たちの方が人生を分かっていると言わんばかりに彼らの思う常識を延々と説かれ、こちらの考えを聞き入れることもせず「たかが子供の言うこと」と軽んじられて、やりたくもないことを力によって強制的にさせようとしてくる。

私は、その干渉を避けながらやりたいように事を運びたかったし、頼る人も自分で選びたかった。

あいにく自分の夢を話していいと思えるほど心を開ける大人は、大学で当時所属していたゼミの担任のみだったので(部活で歌う姿を見て察したらしく、私が話す前からバレていた)、彼以外の大人たちの目を全てかいくぐる必要がある。

 

そこで私は、他の学生たちのようにまじめに就活をしている学生を演じることにした。まじめなフリだ。大人側から見て、表面上では「問題なし」とみなされるための行動をしておき、陰で自分の計画を進めようという作戦だった。

説明会に誘われれば近場のものは参加したし、面接試験を勧められれば気乗りしない会社でも受けに行った。選考通過や採用は1件もなかったが、結果など問題ではなかった。

あくまで重要視されるのは「就活をしている」という事実だ。まじめを装えば納得されるという私の仮説は正しかったようで、不採用続きでも、私を責める大人は誰もいなかった。

 

面倒だけど、あと1年我慢すればいいだけだと割り切り、周りと違うことなんかひとつも望んでいないような、当たり障りのない学生をやることにした。

 

「フリ」は自己防衛のため。

そうして仕事を見つけるまでの時間稼ぎをしていたが、簡単に言うと「やりたいことができて、批判もされない道」を選びたかった。否定の目を向けられることが怖かったからだ。(大学進学を決めた理由もそうだった:第六話余談参照)

仲の良い友達だけでなく、学校・大学卒業を間近にした世の中の若者たち大多数は、会社員や公務員などになるために就職活動を行う。それが周りでは「普通」とされている。

だけど私はそのような道を望んではいない。生活のために働く必要があることは認めるけれど、会社員として働いて経済的に安定することより、本当に好きなことができる人生に価値を感じる。多少稼ぎが不安定でも、生きていければそれでいい。

人は皆違うのだから価値感が違っても当然だし、どんな生き方を望むのも自由なはずなのに、「普通」からずれていれば非常識な人間であるかのような目を向けられる。自分は自分、人は人と思っていても、心のどこかでは、周りと違うことを不安に思っていたのかもしれない。

 

家族や教員など、自分に干渉してくる大人たちに自分の夢を話すことはできなかったし、話したいとも思わなかった。企業への就職を常識とし、勧めてくる人たちが、私の「シンガーソングライターになりたい」という夢を良しとするわけがないのである。

実際に、自分の希望を言うことから逃れられず仕方なく話しても、肯定的な反応をする人は先に述べたゼミ担任を除き、今まで誰ひとりとしていなかった。その度に私は心に傷を負い、わかってほしい人にわかってもらえない悲しみを抱えてきた。

話したところで何の協力を得られるわけでもないばかりか、ただ損をして終わるだけだ。

 

やりたいことや夢は自分の本心、こう生きたいという自分そのもの。それを笑われたりけなされたりして批判されることは、自分という存在を否定されることと同じだった。

だから、否定されないように生きたかったのだ。「普通」を演じておけば、周りは私を当たり障りのないごく普通の学生として認識する。「普通」は常識を外れていないので、彼らの批判の対象からは除外され、私は傷つかなくて済む。

就活しているフリは、本心に踏み込ませないため・誰からも批判を受けずに送りたい人生を送るための自己防衛だった。

 

応募資格:普通自動車免許取得者。

4年生の夏ごろから私はハローワークへ通うようになり、たびたび職業相談や求人紹介などを受けていた。

進路指導の教員にしつこく勧められ、その場しのぎのつもりで行ってみたのがはじまりであったが奇跡的に相談員に恵まれ、私の希望をできる限り聞いて求人を探してもらえることになったのだ。頼れる味方が増え、これでだいぶ仕事探しがスムーズになると思った。

 

しかし、普通自動車免許が必要な求人が大部分を占めており、仕事を紹介されても選考を受けられないということがしばしば起きていた。

車の免許を取るつもりはなかった。自動車学校に通うだけでも20万円以上はかかるし、車は維持費が高いとよく聞いていたので持つ気もない。求めていない上に、就職試験のためだけに払うには大きすぎる額なため、全く必要性を感じなかった。

だから、それほど気にはしていなかったのだが・・・。

 

一言が、予想外の展開を招く。

ある日、親に就活の進捗状況を尋ねられたときに、私はうっかり「車の免許がないと受けられない所が多いみたいなんだよね」と言ってしまった。

この自分の言葉が、事態を急激に悪化させることになる。「なかなか良い求人がない」という答えだけでいいと、あの頃に戻って自分に警告できるものなら全力でしたいものだ。

 

「でも免許を取らなくていいような仕事を探すから大丈夫」と付け足しはしたが、親たちには心配させてしまったらしく、数日後に母が神妙な面持ちで私に封筒を差し出してきた。

「これで自動車学校に行っておいで」

 

(・・・いや、ちょっと待ってよ。やめてよ。)

 

見なくても分かる。あの中には、分厚い札束が入っている。高すぎて払う理由がないとまで思った、あの多額の入学金が。

動揺して固まるとはこのことだと思った。こんなもの受け取れない。せめて、そんな大金出せないから自分で稼ぎなさいと突き放してほしかった。私は卒業までの時間稼ぎができればいいだけだ。免許を取ってまで就活に打ち込むつもりではない。

そんな私のために、犠牲にならないで。苦労して稼いだお金を、私が望んでもいないことのために捨てないで。貴重なお金を、もっと大事にしてよ。私にそこまでしてもらうほどの価値はない。

そんな思いが一度に押し寄せすぎて、言葉にならない。頭が処理できていない。

 

―――だめだ、断れ。免許なんてなくてもいいと言え。

数秒あってやっと我に返るも、すかさずそこにもう一人の自分の声がする。

 

―――でも拒否したらしたで、「じゃあ就職はどうするの?」と問い詰められる。干渉されずにやりたかったことを白状しないといけなくなる。そしたら間違いなく心ない批判にあって私はまた傷つくだろう。

一度、勇気を出して夢を話してみたのに、数日後には忘れたふりをされたことがある。責められているように感じた。「お前の生き方は間違っている」という意見を態度で示されたんだと思った。もうあんな最悪な思いはしたくない。

お金を渡してきたということは、大金を失ってでも娘の就職を望んでいるのだろう。

私が要求を飲んで思い通りになれば、この場は穏便に片付く。母は満足するし、私の安全も守られる・・・。

 

(それでも嫌だ・・・こんな重いもの、背負えない・・・。)

 

受け取らず、黙ってフリーズしている私にしびれを切らしたのか、「就職に必要なんだから!ね!?」と、反論を許さないような強い口調で押され、その剣幕に気圧されてしまった私は札束入りの封筒を受け取ることしかできなかった。

 

・・・厚い。何枚も、お札が入っている。手にしたことのない重み。親たちがどれだけの時間をかけて、どれだけの犠牲を払って得た額なのだろう。

これを、入りたくもない自動車学校に捨てに行かないといけないのか。そんな粗末な使い方をしていいはずがない。

こんなのは嫌だ、今すぐ返したい。

でも傷つきたくない。自分の心は守りたい。本音に深入りされれば、私は生き方を否定されてこの家にいられなくなる。養ってもらっている身分で、力が上の人間に逆らうことなど許されない。

どっちも嫌。「嫌」と「嫌」の戦い。どちらを選んでも、嫌な方が残る。

 

決めきれず、迷っているうちに母に連れられ、自動車学校まで来ていた。どうやら、入学手続きをすることになってしまったらしい。震える手で、母から受け取ったあの厚い封筒を、窓口に差し出す。「渡すな!やめろ!」と止めようとする自分と、最後まで戦いながら。

 

(ああ、なくなっちゃった・・・。)

 

紙、たったの二十数枚。だけど、詰まっているものが重すぎる。

無慈悲にも万札の枚数を確認されるだけの作業を経て、学校側の利益へと変わり果て、親たちの時間と労力の結晶は消えてしまった。

その様を、母はどんな気持ちで見ていたのだろう。むなしさか、悔しさか。

 

素直に感謝すべきだと思われることだろう。だが私は、感謝などとてもできなかった。罪悪感と申し訳なさが大きすぎて、それしか感じられない状態になっている。私がいるせいでこんなことになってごめんなさい、という罪の意識だけが心の中を支配する。

本当は拒みたかったのに、自分を否定されることを恐れたばかりに受け取ってしまい、ここまで来ることになった。

もしかすると失われずに済んだかもしれないあの大金を、母の目の前で窓口に引き渡して無に帰したのは、他でもない、私だ。

 

まだ学校の説明すら受けていない入学金支払いの時点で、すでに私は精神的にボロボロだった。

自分一人が面倒な思いをする程度ならまだ耐えられた。でも、人を巻き込んでしまった上に多額の損失までさせている。

大切なものを守れなかった。人を犠牲にして大金を失わせた、父と母の人生を踏みつけにした、そんな重罪を抱えた気分だった。私のせいで、親は犠牲になった。

その日から私は、自分自身の存在を罪のように思い始めた。

 

憂鬱も、消えたい気持ちも、全部シアワセ。

親の生命時間の一部であるという重みを持った尊い犠牲を文字通り払ってしまった以上、責任を持ってやり遂げなくてはならないと思い、免許取得に励むことを決めた。やりたくなかったことだとしても、親が与えてくれたこの機会に無理やりにでも感謝して、幸せだと思わなくては、と自分を奮い立たせる。

つらくても今はいずれ終わる。その後は、夢に向かっていける時が来ると信じて。

 

自動車学校での教習は難航した。やる気を出そうにも、元々はやりたくないので当然車を目の前にして運転したいと思うこともできず、教習の内容がうまく頭に入らない。なかなか覚えない私に、教官の口調もきつくなる。

その度に私は、できない自分を責めた。こんなこともできないのか、親に大きな金を払わせてここに通えているのに、やりたくないなんて甘えもいいところだ、親どころか教官にまで迷惑をかけているのか、なんて駄目な人間なんだろう、と。

毎回の教習で、私は人の迷惑にしかなれない最低な存在だと思い知らされ、回を追うごとに憂鬱さは増していく。今日もまた教官に迷惑をかけに行くのか、上達せずに親の期待を裏切るのか、迷惑な娘だな―――浮かんでくるのはそんな言葉ばかり。

 

迷惑、迷惑、迷惑・・・

呪文のようにいつも自分に対してそう言っていたら、いつしか「私さえいなければよかったのかもしれない」と思うようになっていた。

私なんかいなければ、親は苦労しなかった。誰も私に迷惑をかけられることがなかった。いなくなれば、みんな助かるのだろうか。私も、この苦しい日々から解放されるだろうか。

(もう、消えてしまいたい。)

 

でも、死ねばまた別の迷惑をかけるだろう。葬儀に費用をかけさせ、大学の奨学金返済も全額残っている。そんなのは無責任すぎやしないか。

それに22年弱も苦労して育てた子供なのに、何の報いも見返りもなく死なれたら堪ったものではないはずだ。自分たちの費やしてきた時間は何だったのだと、虚無感に襲われて何もかも嫌になってしまうかもしれない。しかも、「娘が自殺した」という不快感を一生背負わせる。

どうやら、死ぬ方が迷惑らしい。楽になるのは自分だけだ。ならば、消えてしまう方は選べない。

死にたくても、死ねない。

「死にたい」より、よっぽどつらいと思った。死ぬことすら、迷惑だなんて。

 

それならせめて、生きているうちにかける迷惑を減らそう。もう犯してしまった過ちは許されるものではないけれど、きちんと免許取得までを乗り越えよう。

それに今を耐え抜けば、私は幸せを得られるかもしれないのだから、今だって幸せだと思わなければ。

そう、私は幸せ。全部幸せなんだ。この苦しみも、存在への罪悪感も、死にたい気持ちも、全部幸せ・・・

 

気付いたころには遅かった

自動車学校に通うようになってから、家で家族と顔を合わせる時間が苦痛になった。少しずつ教習の課題はこなしているものの、やはり相変わらずうまく覚えられないことの方が多く、自分を責める回数も増えていく。

家に帰ると親は普通に迎えてくれるが、その度に「こんな迷惑な娘に育ってしまってごめんなさい」というひどい罪悪感に襲われ、家族と過ごす時間を最小限に抑えて自室にこもる時間が増えた。そして一人になった部屋で、何時間も泣いて過ごすだけの日々が続く。

 

大学4年の秋。気づけば私は、ひとときも笑わなくなり、感情を失ったように何に対しても喜怒哀楽を感じなくなっていた。

そして何をする力も湧いてこず、やりたくてやっていたことも、耐えなければと思って仕方なくやってきたことも全てやめていた。

 

音楽の存在をほとんど忘れ、楽しいものがあって、好きで、やりたいことのために生きたいという気持ちが、始めからなかったように消えた。将来やっていくことであるという認識はあるけれど、どうしてやりたいのかが思い出せない。

自動車学校の教習スケジュールも全部キャンセルし、就活もストップした。教官が忙しくて予約を取れない、良い求人がなくなった、今だけ卒論に集中したい、などと言い訳を吐き、徹底的に逃げる方へと向かっている。

まるで自分を誰かが操って、勝手に行動しているかのようだった。

 

もはや、焦りもない。心が一切動かない。やらないといけないことはいろいろあるけれど、どうして大事なのかが分からない。あんなに親の負担になっていることを後ろめたく思っていたのに、親の思い通りの娘になってあげることに義務感も持たない。

望まない方へ進んでいくこの流れに抗えない、諦めに似たような絶望感に染まりきり、「自分は迷惑」と思って過ごすのみ。

死ぬ方が迷惑だから生きなければと思っていたが、どうせ生きていても迷惑だと分かれば、何をしても私は救いようがないゴミなのだ。もう何もかも、どうでも良くなっていた。

 

「迷惑になっちゃダメ」しか思わない。

音楽に楽しさを感じなくなったことに気づき、なんとなく、今までの自分と違うかな?と少しだけ違和感を覚えることはできた。このかろうじて残っていた感覚に導かれるように、一人で心療内科を受診してみたところ、

私は、うつ病と診断された。

 

知ったところでショックも何もなかったが、家族に知られたらまた迷惑をかけるということだけはわかった。

(それはダメだ。このことは絶対に言わない。)

私は病気だなんて言われていない、病院になんて行っていない。何事もなかった。それでいい。

どうせ治療費は払えそうもないから、通院せず黙って忘れることにした。もう親には苦労してほしくない。こんな迷惑で何の価値もない娘のために、心配する労力を使わせることすら申し訳ない。

存在しているだけでも迷惑なのだから、せめてこれ以上何も起こすべきではない。家庭の平穏を保つことが唯一私にできる親孝行であり、償いだと思った。

心の奥で、いつか親のどちらかが気付いてくれますようにと切望する愚かな本心を殺しながら・・・。

 

夢半ばにしての、うつ。

生きていることを否定されたら、生きたくなくなって当然だ。それを恐れて傷つかないように人からの批判を避けてきた。なのに、最終的には自分で自分を否定していた。

思わぬ自分の過ちで人を巻き込んだことをいつまでも許せず、度が過ぎる否定を浴びせていた。

何もかもやめてしまったのはきっと、「もうやめて」という本心からのSOSだったのだろう。

 

耐えられる限界を超えて、私の心は壊れた。自分で、壊してしまったのだ。

 

この時期の自分の心境をつづった歌詞。2012年、21歳の時の作品。